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2004.05.07

右と左

「50年後の夢」に続いて、高橋秀俊のエッセイの紹介。 ただし、こちらは1981年だから、ついこの間、亡くなる4年前の作品。
「物理の世界には『右と左』の区別はない」(細かくは例外はあるが)という話は、へぇー。

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右と左

高橋秀俊

右とか左とか言ってもイデオロギーの問題とは関係ない,物理的な右と左の話である。

そもそも右と左の区別を覚えるのは人間にとって決して易しいことではない。幼児が文字をよく裏返しに書くのはその一つのあらわれである。大体,「右」と「左」の意味を何も知らないこどもにはじめて教えるのは大変難しい。それには本当に手を取って教える以外なく,言葉で説明する方法はない。箸を持つ手,茶碗を持つ手などという言い方がわかるのは,右と左の区別を一応身につけた後のことである。
 つまり右とか左とかいう概念は,本来,言葉で定義できないのである。太陽や月が左から右へまわると言えば北半球の人にはわかり易いが,南半球の人は右と左を逆に思うだろうし,赤道上に住む人たちには全く意味がわからない。右利きの人なら,利き手の方が右だと言えばわかるが,左利きの人は逆に覚えてしまう。しかし,心臓のある方は左で,盲腸のあるのは右側というのは,内臓のことを知っている人には例外なく適用する定義である。
 上のような例をいろいろしらべてみると,右とか左とかを言いあらわすのに使える万国に通用する表現というのは,何かしら生物に関係したことに限られることがわかる。言いかえれば,生物に関係しない物理学の本当の基本法則には,右と左とかいう言葉は決して入って来ない。仮に入って来たとしても,右と左を取りかえても差支えないような入り方だということなのである。
 こう言うと,読者から異論が出そうである。電気で出てくるフレミングの右手法則や左手法則はどうなるのかと。ところが実は,これも右手を左手と言いかえても一向にかまわないのである。ただ,そのときは磁力線の向きの定義を逆にして,磁石のS極からN極へ向かうように矢印をつけなおせばよいのである。
 そういうと,そう勝手に磁力線の向きを変えたのでは話にならないと思われるかもしれない。しかし実は,磁力線の向きをN極からS極へ向かうように定めたのは全く便宜的な約束事なのである。それなら,電気力線の向きを,正の電荷から負の電荷に向かうようにきめたのも約束事ではないか,と言われるかもしれないが,それとはだいぶ事情が違うのである。したがって,フレミングの右手の法則や左手の法則は(右,左という点に関しては)苦労して覚える必要がないものだと言える。それを間違って逆に覚えても一向に困らないのである。
 それでは電流の磁気作用に対して,どんな法則を覚えればよいかと言うと,それは電流と電流の間の力の法則,つまり同じ方向に平行して流れる電流は引き合い,逆方向の電流は反発するという法則である。磁石は電流の流れるコイルと同じと考えると,電流と磁石の間の力もこの考えで知ることができる。
 このように,自然法則には右と左の区別がないというのが,物理学の基本法則の一つであると,最近まで物理学者たちは信じていた。ところが,物質を構成する窮極的な粒子である素粒子の間にはたらく力のうちには,右と左を区別するものがあることを,中国系のアメリカの物理学者リーとヤンが発見して世界を驚かせた。しかしこれは日常の現象とはかけはなれた素粒子の世界のことであって,普通の現象の扱う物理学では,やはり右と左は区別する必要はないのである。
 では生物の場合はどうして右と左がはっきり区別されるのだろうか。なぜ盲腸が左にある人はいないのだろうか。それは生物を構成するいろいろの分子,たとえばいろいろのアミノ酸のほとんどのものが左右で対称でない,いわば「ねじれた」ような構造をもっていて,しかも、すべての分子が同じ向きにねじれているからである。そして,そういう,生物だけが,そのように一方にばかりねじれた分子を生産することができるのである。
(東京大学名誉教授)

中学教育資料 (文部省 中学教育課、高等学校教育課 編集) 昭和56年4月号 No.425

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Comments

おお、高橋先生 blog シリーズの第二弾ですね。

偉そうなことをいってしまうと、この「右と左の区別」の話は、物理では定番の話題で、わざわざ高橋先生のお手をわずらわす必要があるテーマではないかも。

昔からある設問は、「宇宙人との(電磁波による)通信が可能になり、様々な意思疎通や情報伝達ができるようになったとして、『右と左』の区別を伝えることができるか?」というものです。

力学や電磁気学の現象だけを用いたのでは、これはできない、というのが正解で、高橋先生が解説で書かれていることに相当します。ただ、高橋先生も書かれていますが、ベータ崩壊におけるパリティ非保存という現象(前野さんの解説が http://homepage3.nifty.com/iromono/kougi/timespace/node10.html">http://homepage3.nifty.com/iromono/kougi/timespace/node10.html にあります)を使えば、右と左の区別が伝えられる、と考えられます。

ただ、この話にはオチがあって、相手の宇宙人が反物質でできていたとすると、左右が逆に伝達されてしまうのです。お互いが反物質でできているかどうかは、電磁波の通信では決してわからないのでした。

そこで、通信の段階で、右と左を教えておき、「今度、お会いしたら、地球の慣習に従って右手を出して握手しあいましょう」と言っておくのがよいということになっています。そして、船外活動でついに宇宙人と初対面を果たしたら、まず、相手がどちらの手を出してくるかを注意深く見なくてはなりません。もし、左手を出してきたら、ぜったいに、その手を握ってはならない! (このネタをどこで聞いたのだったか、忘れた。もちろん、オリジナルじゃないです。)


Posted by: 田崎 | 2004.05.07 11:38 AM

あ、本当に書きたかったことを書き忘れた。

高橋先生が最後に書かれている、生物の構造のマクロな非対称(心臓や盲腸の位置(今の話とは関係ないけど、心臓が右にある人だって、けっこう、いるんでしょ?)など)の起源はアミノ酸の構造の非対称である、という議論には異議あり。

アミノ酸がカイラリティをもっている(ねじれている)からといって、それから作られる細胞がねじれているわけじゃない。アミノ酸のもつ非対称性は、やや大きなレベルではいったんみえなくなっている。そして、内臓の配置といった、マクロな構造を作っていくときに、別のレベルでの対称性の自発的な破れがあって、非対称な構造が生まれるのだと思う。

著者からの反論は・・・


五十年後か六十年後に、あちらで、伺うことにしよう。

Posted by: 田崎 | 2004.05.07 11:47 AM

田崎さんどうも、
 今回のネタは田崎さんの専門に近いかなぁ、なんて思ったんだけど軽すぎましたかね。「中学教育資料」に書いたものだから仕方ないか。 たまたま「50年後の夢」と一緒に見つかったんで続けて登録しましたが、よけていおいた理由が全然違ってて、こちらは秀俊の記事、というよりも「ちょっと前の文部省の資料」くらいのつもりだったかもしれない。(なにを言い訳してるんだ)

やめときゃよかった、と思いつつも、また古い資料(blog)でも探して載せてみよっと。

Posted by: のぶ | 2004.05.07 12:08 PM

たしかに文部省の出版物の記事じゃあ、高橋先生も気が乗らなかったでしょうね。字数制限もあったろうし、これじゃ普通の話をちゃんと書くスペースもないぞ、とか、ぶつぶつおっしゃりながら原稿を書かれている姿を勝手に想像します。

また、続編にも期待しております。


あ、そうだ。さっき「五十年後か六十年後に、あちらで」と書きましたが、ぼくの曾祖母は百八まで生きましたので、ぼくもそのくらい生きるなら(そのつもりですけど)六十年でも足りませんので、その旨、ご了承下さい。

Posted by: たざき | 2004.05.07 01:08 PM

あやしい記憶で申し訳ありませんが、右と左という語彙そのものを持たない民族が南太平洋にいるそうです。彼らが使うのは左右ではなく、東西南北で、ローカルな座標系を持たないってことですね。

信夫さんと知り合ってから、神田の古本屋で秀俊さんの『数理と現象』を入手しました。分厚い本ですが、半分くらいのテーマは「対称性」ですね。

Posted by: 271828 | 2004.05.08 08:11 AM

「右と左のない民族」というのは面白いですね。そんなこと気にしないのか、と思ったら「東西南北」を使うのですか、それは高級だ。いつでも外で生活しているとその方が便利かもしれませんね。
「数理の現象」、難しい本ですねぇ。読まなくちゃ、と思いつつ読めるところが少なくて困っております。目次に誤植がある、という編集者にはとっては痛根のミスがある本です。探してみてください。(改版で直ってたら・・・と思ったけど、あの本が改版されるわけないか)

Posted by: のぶ | 2004.05.08 09:49 AM

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