「疑わしきは罰せず」を誤解
長い間「疑わしきは罰せず」を勘違いしていた。いえ、本質的な意味は(子どもの頃を除き)理解していたのだが、「疑わしき」の対象を間違えていた。
A被告が犯人であるとされ、かなり怪しいが、証拠が足りないので無罪になる、
というケースで、
Aの容疑は濃い、即ちAという人間は疑わしい。しかし「疑わしい」というだけでは罰してはならず、確証がある時のみ罰してよい、という意味だと思っていた。
犯人であるかどうかが「疑わしい」などとは考えてもみなかった。
初めてこの表現を聞いたとき、「疑わしいなら罰すべきじゃないのか」と不思議に思ったのも、まさにその勘違いから。でも、ぼくの解釈でも、いちおう同じ趣旨になるところが気に入ってもいる。
共感してくれる人いるかなぁ。
ちなみに、最近は「疑わしきは被告人の利益に」と言われることが多い気がするので、「罰せず」とは限らず、「罰するけれども被告人に有利な判決(減刑等)」にすることもあるから、かと思っていたのだが、Wikipediaによると、
「疑わしきは罰せず」(うたがわしきはばっせず、ラテン語:in dubio pro reo)は刑事裁判における原則である。ラテン語の直訳から、「疑わしきは被告人の利益に」ともいう。
とのことだから、むしろ原意に近いのかもしれない。
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Comments
本日(12月18日 金)だけ読める、【北國新聞】の【時鐘】に関連する記事があります。
http://www.hokkoku.co.jp/jisyoh/hjisyoh.htm
冤罪であろうとなかろうと「疑わしい人間を罰す」れば世間が丸く収まるというのが普通の考え方なので「疑わしきは罰せず」とするには高度な判断を普通の人に要求することになると私は考えます。
また戦闘中の敵国民や敗戦国の国民には適用されないという現実もあります。
ちなみにノバート・ウィーナーは法律について「法律の問題はコミュニケーションのそれ、サイバネティックスのそれである。即ち、それは一定の臨界的な事態を秩序正しく且つ反復可能な仕方で制御する問題である」(人間機械論)と言っています。
「サイバネティックス」に関する本人による説明は「われわれの状況に関する二つの変量があるものとして、その一方はわれわれには制御できないもの、他の一方はわれわれに調節できるものであるとしましょう。そのとき制御できない変量の過去から現在にいたるまでの値にもとづいて、調節できる変量の値を適当に定め、われわれに最もつごうのよい状況をもたらせたいという望みがもたれます。それを達成する方法が Cyberneticsにほかならないのです。船の場合、風向や海の状態が今まで移り変わってきた模様によって舵をうまくとり、与えられたコースに最も近い航路を船が進むようにすること――これがちょうどその一例になっています」(サイバネティックス)
Posted by: 田吾作 | 2009.12.18 01:53 PM
田吾作さん
タイムリーな新聞記事をご紹介いただきました。この筆者は「疑わしい」という言葉の意味を、ぼくと同じように解釈(誤解?)しているように読めます。
「疑わしきは罰せず」の原則は、片方が国という大権力の場合の一種の例外であって、一般には「疑わしくても罰す」という発想が多いですね。「立証」なんて、ふつう誰にもできませんから。
Posted by: のぶ | 2009.12.18 03:24 PM