金メダルの重み
カーリングやフィギュアスケートが「スポーツとして捉るには違和感がある」という話を書こうかと、オリンピック期間中考えていたのだけど、どうも頭がまとまらなかったので、同じくオリンピックでも「金メダルの重みの違い」を考えてみることにした。
思いがけずスピートスケートの「女子団体パシュート」で日本が銀メダルを取った。パシュートはトリノオリンピックから採用された新しい種目で、「テレビを意識した人気獲得策」の一環であることは明らかなのだけど、実に面白くてスポーツ性も損われていないので良い試みだと思う。
でもこの銀メダルと長島圭一郎、浅田真央の銀メダルとを同列に考えるのには無理があると思う人は多いだろう。
なぜか。パシュートの出場選手たちが「このために何年も苦労してきたわけではない」からだろう。全員が他の種目もに出場している。
実はパシュート以前に、スピードスケートは一人の選手が多種目に出場していくつもメダルを取るのが当たり前になっている。500から1万まで一人が全部金メダルを取ったハイデンなどという人もいた。
水泳も同じく一人でたくさん取る。北島は100と200で2回連続合計4つの金メダルを取った。一方柔道の野村は3回連続優勝で金メダル3つ。これを「4>3」と見る人はいないだろう。
つまり同じ金メダルでも「重みが違う」と思う。そもそも違う競技では重みの比べようもない、といえばそうなのだけど、そこは「職業に貴賎はない」的発想で、マラソンも柔道もスキーもアーチェリーも同じと考えることにする。「スポーツらしいかどうか」は関係ない。
でも、一人が複数の金メダルを取れる競技と一つしか取れない競技との重みが違うことははっきりさせておきたい。
北島が100と200に勝った時に「平泳ぎの100と200に勝つことは、陸上の100と800に勝つことに相当する」とか言っていた人がいたけど、冗談はやめてもらいたい。現実に北島以外にも両方勝つ人はいたし、金メダルでなくても両種目の決勝に進出した人などいくらでもいるけど、陸上の100と800を両方やる人など、人見絹江の時代ならともかく今はいない。まあ、それは余談だけど、水泳に100と200が存在するのは「専門性が違うから」というよりも、
・選手のチャンスを増やす
・イベントとしての盛り上がりを高める
という理由の方がずっと大きいに違いない。スケートも同じく。
陸上の100と200も同じ人が勝つことがあるけど、両方勝つようなスーパースターはめったに現れないからよい。さらにはマイケル・ジョンソンみたいに200と400の両方という人もいるので、200メートルは「100m型 vs 400m型」の対決という点でも面白い。
もちろん複数出場できる競技のメダルの価値は低い、などといっては選手が気の毒すぎる。悪いのは種目が多いことなのだから。「同じ人が勝てるような種目」は本来あってはならないのだ。
そもそもなぜ「種目」にはいろいろあるのを考えてみると
「種目が変わると強い人が変わる」
という発想からだろう。いつでもだいたい同じ人が勝つ水泳の100と200や、スケートの5000と1万などは、水増し感が強い。
その競技だけを見ている間は気にならないのだけど、オリンピックという場に集めてきて、他の競技のメダルと同列に並べると、とたんに気持ちが悪くなる。
水泳は100か200のどちかにするか、いっそのことオリンピックだけは150メートルにするとか、
1964年の東京オリンピックでは、水泳の自由形以外の種目は男子が200メートル、女子が100メートルだけだった。おかげで200が得意だった背泳ぎの田中聡子は残念ながらメダルを取れなかった。
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