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2011.04.14

数理倫理学序説

原発事故のことを考えていて、以前読んだ話を思い出した。うろ覚えだったのだが「確率的倫理学」というようなタイトルだと思ってGoogleに託したところ「数理倫理学序説」だったから、当たらずとも遠からずであった。

これは「第三 物理の散歩道」(ロゲルギスト著)に収められている一文で、書いたのはロゲルギストK2こと木下是雄さん。超ロングセラーの『理科系の作文技術』(中公新書)の著者でもあります。

「数理倫理学序説」で木下さんは、学生時代の倫理や道徳の授業は全く役にたたない、《・・ぜひ教えるべきものは、統計や確率にもとづいてものごとを判断する仕方であろう。私の考えでは、確率は、人間の行動をきめる上の大切な基準の一つとして、数学で教えるよりも先に、まず倫理学や社会科でとりあげるべき題材なのである。》と言っています。

久しぶりに読んでみて、あまりにも共感する部分が多くて驚きました。そして、これは読み直すまで覚えていなかったけれど、原子力の話が出てきます。そのまま適用できるわけではありませんが、今考えさせられることがたくさん書かれています。

以下、長くなりますが何ヵ所か引用します。言うまでもありませんが、私の引用や要約だけでなく、全文を読むことを強くおすすめします。幸運なことに、久しく絶版だった『物理の散歩道』シリーズが、昨年「ロゲルギスト50周年」を記念して、復刊したのです。岩波書店版の全5巻は同じ岩波から、中央公論社の「新・物理の散歩道」全5巻は、ちくま学芸文庫として刊行されています。

〈前略〉ここ二、三年のあいだに大きな鉱山事故がいくつかあった。鉱山の作業に附随する危険を絶無(確率ゼロ)にすることは、客観的に見て不可能である。それでは、作業方式の改良、保安設備の充実などによって坑内作業の危険率をどれだけにおさえれば、労働者を坑内に送ることが倫理的に正当化されるか。

問題の本質は、危険率ゼロという条件は〈実現できない〉という点にある。この事質から面をそむけてはいけない。ゼロを目標とすることは、たいへん美しく、人道主義的なように聞こえる。しかしそれは、感傷を満足させるだけで、内実は狡猾な逃げ道であることが多い。すべての鉱山経営者は、事故の「根絶」を期していると答えるであろ! ゼロという空想的目標の代わりに、許し得る危険率の上限が定められ、その鉱山における統計に照らして倫理的(*)ないし法的な責任がきびしく追求されることになれば、保安に対する関心はかえって切実なものとたらざるを得ないのである。
【* 統計との照合は、もちろん、統計数値の確率的変動を考慮に入れた数理統計学の方法論にしたがわなければならない(第五節参照)。】

いま述べた型の問題は、私たち自然科学者や工学者にも無縁ではない。すべての進歩はいくらかの危険をともなうのが原則である。何年か前に、原子炉の研究、あるいは原子炉を利用する研究に附随する危険が社会の関心を呼んだことは読者の記憶に新たであろう。その危険が一般に感じられていたよりもずっと小さいことは保証してもいいように思うが、とにかくゼロでないこと、また数学的な意味で厳密にゼロにはできるはずがないことは明らかだ。しかし、最も実用的な面だけをみても、地球上の石油と天然ガスを使い果たすのが約百年後という見通しのたっている現在(*)、最も可能性の高い未来エネルギー源の一つの開発を進めないわけにはゆかないのである。原子炉の研究・開発の作業は、周囲に及ぼすかもしれない危険をどれだけにおさえれば、倫理的に是認され、研究者の心にかげりを残さないですむようになるのか。
【* 押田勇雄著『太陽エネルギー』(日刊工業新聞社、一九六三)参照】
メインが鉱山の話で、原子力が「未来のエネルギー」という感じなのが時代を感じさせる。書かれたのは1963年(東海村の第1号原子炉が「初臨界(そんな表現があるんだ)」に達したのが1965年5月4日)。

とにかく危険はゼロにはできない、ゼロを目標にするのは「狡猾な逃げ道」であることが多い、というところがポイント。

エミール・ボレル『確率と生活』(平野次郎訳、白水社、一九五二)
第三章「無視できる諸確率および実生活における諸確率」より

個人的尺度において無視できる確率 10-6
地上的尺度において無視できる確率 10-15
宇宙的尺度において無視できる確率 10-50

ところで、10^-6すなわち百万分の一という数字は、たまたま、大都会において市民が一日のうちに致命的な交通事故にあう確率とほぼ一致している。
〈略〉
ところで、私などもふくめて大都会の住民は、自分もいつかは交通事故にあうかもしれないという可能性を十分認識している。しかし、だからといって、朝、うちを出るときに、今日はやられはしないかと頭を悩ませたりはしない。10-6という確率の人生における重さはちょうどそれくらいのものなのだ。
別の例を引用すると、宝くじで高額の賞金を引きあてる確率がほぼ10-6である。宝くじ当せんを将来の生活設計に組みこむのは、毎朝、今日は自動車にはねられはしないかと出渋るのとちょうど同じぐらいばかげている(娯楽としての宝くじの存在を否定しているのではない。宝くじを生活設計の要素として扱うのは愚の骨頂というだけである。その間の機微が、確率をまず社会科あるいは倫理の教材としてとりあげるべきゆえんなのだ)。
本題からは少しそれるけれども、「娯楽」としての宝くじは別だよと言っているのも面白い。木下さんご本人が買うとは思わないけど。

ここまでに登場してきた10-6とか10-15とかいう確率は、私たちがしょっちゅう遭遇する確率 ― 誰々を相手にマージャンで勝つ確率とか、停留所で待たないでバスに乗れる確率とか ― にくらべておそろしく小さくて、10-6は「あり得ない」にかなり近く、10-50は「まったくあり得ない」に等しい。しかし、人が或ることをしてよろしいかどうかの倫理の立場に立つと、これぐらいの確率が許容し得る上限とて採用される場合も少なくないように思われる。

たとえば、放射能障害のように子々孫々にわたって影響の残る可能性のある問題では、先に「地上的尺度において無視できる確率」の項でこころみたのと同様の考え方にもとづいて、危険率の許容限度をうんと小さくとらなければなるまい。しかし、この許容限度には、ゼロでない、有限の値を与えねばならぬ。もしそれをゼロにとったとしたら ― つまり、放射能障害の考えられるような実験や産業はいっさい許さないとしたら ― 私たちの前途は甚だ暗いものになるだろう。前述のように、石油資源の枯渇は目に見えているのだ。

放射能のことはどうしても気になっていたようだ。「子々孫々にわたって」というくだりは、少なくとも今となっては違っている可能性が高いけれども、「恐怖度が高い」という意味では本論に影響していない。

最後に自動者事故等で、責任を「偶然に転嫁する」という考え方。

本節の所論を要約してみると、
1 事故を起こした場合に第一に補償の責めを負うべきものは、当然、その本人である
2 しかし必要な補償額は、ふつう、個人の支払い能力を超えるだろう
3 社会は、或る危険率の存在をみとめた上で彼に運転を許したのだから、彼は責任の一端の「偶然」に転嫁してよい。そのことを可能にするために、社会は保険制度を用意しなければならない。これは「偶然」に帰せられるべき責任額を関係者 ― すへての車の持主 ― が分担するという方式である。
4 もし保険の形で関係者全員が分担しても必要な補償金を生みだし得ないならば、そのときには、その行為 ― 運転という危険な行為 ― を公認した社会の全員が残額を負担するほかない

というようなことになろう。これが、「偶然に責任を転嫁する」という思想を現実的に裏打ちする場合の基本的なやり方だと思われる。

たとえば原子力関係の研究にともなって生じ得る公害のような場合には、個人の責任は問いないケースが多いし、「関係者全員」が加入する保険制度も考えられないから、以上の要約の1、2、3、はとばしていきなり4にくるほかない。つまり、補償金は全額国庫支出、国民全部の分担とする以外に解決策はないだろう。そうなると、或る危険の確率をはらんだその事業をすることが「善い」ことかどうかを判定する数理倫理学者の責務は一層重大になる。

私は、本稿で述べた考え方が、多くの自然科学者にとって余り抵抗なく受け入れられるものであること、おそらく彼らの胸中に潜在するものを描きだしたに過ぎないことを信じる。しかし、それ以外の方々にとってはかなり根本的な意味で目新しいものがあるかも知れない。むしろそういう方々の協力によって、しかじかの目的をもち、しかじかの結果を期待できる行為をなすことは「倫理的に正しい」と断じ、その目的と期待される結果とに応じて危険率の許容限度を論じることのできるような思想体系 ― 一つの新しい倫理学 ― が建設されることが、私のねがいである。(K2
初出『自然』(1965年10月号)、改訂『中央公論』(1966年3月号)

April 14, 2011 at 06:04 PM in 日記・コラム・つぶやき |

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